水土里ネット 牛ヶ首用水

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牛ヶ首用水の歴史

牛ヶ首用水の歴史

用水を願いに立ち上がった人々

昔、婦負郡北部(現 富山市)や射水郡東部の一帯は、神通川の氾濫で出来た沼地や荒地でした。農民たちは、近くの川の水を利用し、わずかな畑を耕していましたが、水不足で干ばつの被害に遭うことが多く、収穫はほとんど見込めませんでした。

八町村善左衛門、下村長左衛門、小竹村久右衛門
用水工事の責任者に任じられた3人

水不足に苦しむ農民たちにとって、神通川の支流、井田川や山田川の水を引き、水田を開くことは、先祖代々の願いでした。そこで近隣の村が協力し、その頃一帯を治めていた加賀藩に、用水路の開削を願い出たのです。このとき人々の先頭に立ったのが、八町村善左衛門、下村長左衛門、小竹村久右衛門でした。3人は藩に農民たちの 苦しみと、用水の必要性を訴えました。

加賀藩が築いた牛ヶ首用水の基礎

加賀藩3代目藩主 前田利常
加賀藩3代目藩主 前田利常。
水田の開拓に熱心で現地に自ら赴き工事を指揮することもあったほど。

加賀藩により用水路の工事が始まったのは、1624年(寛永元年)のことでした。その計画は、山田川から水を取り入れ、駒見用水にいたるというもので、加賀藩の藩主、前田利常公はこの工事に並々ならぬ力を入れました。
また、利常公は用水路ができることで新しく水田が開かれ、水を使う量が増えることを見越して、計画に変更を加えました。これにより、山田川だけでなく井田川からも水を取り入れ、用水の川幅も予定の2倍に広げることになりました。
こうして加賀藩の絶大なる支援のもと、牛ヶ首用水は1633年(寛永10年)におおむねの完成を見ることができました。

四万石の水田を開いた「古江」と「新江」

牛ヶ首用水絵図
牛ヶ首用水絵図1664年(寛文4年)

1638年(寛永16年)、加賀藩から富山藩が分家し、牛ヶ首用水は両藩の共同で管理されるようになりました。また、婦負郡と新川郡の一部を領地とした富山藩には、新しくできた村から牛ヶ首用水の水を取り入れたいという願い出が相つぎましたが、水が足りなくなることを心配する加賀藩の村からは強い反対がありました。そこで両藩で協議し、水がより豊富な神通川の本流に牛ヶ首用水の水源地をもとめ、そこから井田川までの用水路を新しく作ることになりました。

1654年(承応3年)、完成したよう水路は「新江」、以前からの用水路は「古江」と名づけられ、この後、牛ヶ首用水の水を引いて、新しい水田が次々と開かれました。やがてその石高(収穫量)が四万石にも達したことから、牛ヶ首用水は別名「四万石用水」とも呼ばれるようになりました。